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朝顔日記

あさがくるまえに。

礼節と桜

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 美少女と花って、やっぱり最高ですね。玉城ティナちゃん、大好き。

 嗚呼、しだれ桜をみにいきたい。。

 おっほん。えー

 進級しました。

 元々友人だった人が2人いて、その子とばかり話していた。そうしたら、まなねえを通して少し話したことのある子が、クラスに知り合いがいないらしく、「なぁ」と話しかけてきた。

 私は自分のペースを乱されるのが大嫌いなので、そこでむっとしてしまったのだけれど、それはいつものこと。いまこの子と楽しく2人で話してるんだけど!!!という自分勝手な思考は頑張って横に流して、その子としばらく話した。

 ちなみに、この子がお昼ご飯を食べながらスマホをしている奴。礼儀を知らないのかな。だから初対面でこんなにいらっとしたのかしら。

 もう1人話しかけてきてくれた子も、多分1人でいるのは嫌だから私たちのところに来たのだと思うけれど、喋らないんだ、全然。お昼ご飯中とか、一言も発しない。

 ふざけんぬ。

 まあ、緊張とかしているのでしょうね。もしくは元々話すの苦手なタイプの子かもしれないし。それでも、誰も話さないお昼ご飯って、地獄だと思わない?だから私は喋る。

 人の友だちをとられている気分。

 もしかして、と思っていたけれど、これではっきりした。私は執着心と独占欲が人1倍強い。私は教室移動は1人で歩いていたらいつの間にか友人と向かっている、というのが多くって、それが当たり前だと思っていたら、話しかけてきた子と友人が話していた。

 あれ、もしかして私のこと苦手?

 まあ、私も喋らない子、遠慮しいな子は嫌いなので、かまわないよ。ただ、私の友だちの優しさにつけ込まないで。私から、奪わないでください。

 とりあえず、来週から、お昼は何も喋らないでおこう。スマホしながらご飯食べてる奴とも、遠慮しすぎて何も喋らない奴とは仲良くしないことに決めた。する気がない。

 やっぱり友人って、ギブアンドテイクでしょう。話したら返す、好意は与えられた分だけ返す。それができない人とは、話したくないな。

 あ~美しい

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嫉妬と憧憬

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 持論の1つ。

「憧憬と嫉妬は紙一重だ」。

 人は他人に嫉妬せずにはいられない生き物だと思っている。それは見た目や、学力、運動能力、性格、財力など、留まることを知らない。

 人は、自分には無いものを持っている人に憧れる。それすなわち、憧憬。

 それは頑張って手に入れられるものだったりもする。憧憬を糧にして、人は努力する。少しでも、理想に近づくために。

 けれど、それがもし叶わなかったら。絶対になれないものだとしたら。あーら不思議。憧憬はその瞬間から、嫉妬へと様変わりする。

 嫉妬から生まれる悪口。それはきっと、憧憬から来るものだ。その子になりたくってなりたくって仕方のなかった子が、その子の価値を下げて、自分の自尊心を保とうとする。

 そんな人間が、嫌いじゃない。悪口言わない奴はつまらないし、善人など、この世にはいないのだから。

淋しがりや

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 人からよく変わってるね、と言われる。私としては普通に生きているだけなのだけれども。

 以前、こんなことがあった。

 中学の頃、てんちゃんが抹茶クッキーを作ってきて、タッパー2つに入れて、パーカッションの部室に持ってきてくれた。私はフルートパートだったけれど、よくパーカッションパートまでお昼をお邪魔しに行っていたので、そのときも部屋にいた。

 「みんな食べてな」と彼女が言うので、わーい、と言いながらみんな一つずつ手に取り、美味しい。そうしてあとは食べないのだった。

 タッパーにはまだまだクッキーが残っている。でも、みんな遠慮しているのか食べない。お菓子が大好きな私は、1人でばりばりとクッキーを食した。

 そうしてクッキーが大分減ってきたとき、「おい、お前ばっかり食ってんじゃねぇよ!」と言われ、私はえ?っとなった。みんなが食べないから、持ってきたてんちゃんに失礼だし、私が食べていたんだけれど、どうして怒られるのか。

 母にこれを相談したところ、お前はおかしい、と言われた。

「唐揚げが一個余っていたらどうする?みんなに聞くやろ?なんでみんなに『まだ余ってるでーみんなで食べよーさ』とか言わんかったん?」

 その説明は理解はできたけれど、完全に納得はできなかった。

 そして、私はたまに無性に1人になりたくなることがある。うるさい場所、人が集まる場所が苦手で、この間の軽音のライブも、途中何度か抜け出した。そこまで過敏ではないので、吐き気を催したりはしない。ただ、積極的には行きたくない。ゲーセンの空気もあまり好きじゃない。

 人と話す、ということが苦痛に感じたとき、本を読んだり外に出てぼーっとしたり、空想を巡らしてリラックスしたら、また輪の中へ戻る。淋しがりやの私は、完全な孤立は怖くてたまらない。

 私のこういう部分が嫌い、と言う人もいるし、逆にそういうところが好き、と言ってくれる人もいる。私はみんなと仲良くできるタイプじゃないから。

 遊びも、行きたくなかったら「行きたくない」とはっきり言う。それで怒ってくる人もいたけれど、そういう人とは長続きしない。合わなかったんだな、と思い、LINEを非表示にするのだ。

 いま、私のLINE友だちは30人。周りでは、500人なんていう人もいる。

 私は狭く深い関係を築きたいので、自分が仲良くしたい、一緒にいて心地よい人だけしかLINEに表示していない。

 それでも、そういう人たちが30人もいるということが、嬉しくってたまらない。私のこの変な部分を受け入れてくれる人に、感謝を捧げたいと思う。

 多分、どんな人でも、ありのままを受け入れてくれる人、というのは存在するのだと思う。それは恋人であったり、友人であったり、家族であったり。私は幸福なことに、人生の中で、そういう人たちに出会えたのだ、といまは確信している。これからもしかしたら、信用していた人に裏切られたり、失望させられたりすることもあるかもしれない。それでも、私は友人を大切にしたいし、助け合いたい。ぼっちなんてごめんだ。

 変わってるね、と言われることはとても名誉なことだと思う。だってそれは、「あなたは他の人と違って特別」と言われているように感じるから。

不器用な春

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 3年間、この3匹を使い回す。左から、1年目、2年目、3年目。あと4日で2匹目。

 

 

 春は嫌い。花粉症が辛いから。

 「ティッシュを持ち歩きなさい」とよく言われるけれど、授業中にずぴー、と鼻をかんでも、どこにも捨てられないから、結局はハンカチを使う。鼻をかんだハンカチで手を拭くのは嫌なので、わざわざ2枚、いつも持ち歩いている。

 ティッシュはたまに持ち歩いている。鼻をかむのには使わないけれども。

 そもそも、私はポーチに鼻炎薬も、痛み止めも、絆創膏も入っている。ブラシもクシも、日焼け止めだって。

 それなのに、「君って女子力ないね」とよく言われるのは何故だろうか。

✎部屋が汚い

✎鞄の中が汚い

✎学校の引き出しの中が汚い

✎靴が汚い

 からだろうな、と自分では考えている。特に、「靴が汚い」というのは致命的かな、と思う。

 お恥ずかしい話、私は靴を洗ったことがなかった。何故なら、いつも母が洗ってくれていたから。

 私は自分の服装や持ち物にさして興味がなく、いつも母が用意してくれたものを着ていた。だから、靴は洗うものなのだと知らなかったし、高校生になってもそういう毎日が続くのだと信じて疑わなかった。

「あなたもう高校生だし、これからはあまり干渉しないようにするから、じゃ」

 いきなりそんなことを言われて、私はとても混乱してしまった。勉強についても何も言ってこないので、提出物を出さない時期もあったし、テストだって落ちこぼれた。

 全部自分のせいだと思う。親のせいにはもうしたくない。ただただ、どうしてこんなに不器用でドジに育ってしまったんだろうと、時々思ってしまうだけだ。

 さて。

 「女子力」というものは、いつの時代も女子たちを悩ませる。そんな力など、この世には存在しないのになぁ。物理的に。

 

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 私は女の子にナンパされたことがある。

 男の子に見えた、ということではなく、私の顔がタイプだったらしい。それも、3人から。いまでもその3人とのLINEのグループがあるし、時々話したりもする。普通に良い子たちだ。

 正直に言って、自分の見た目はそこまで悪くはないと思う。道を歩けば皆振り返る美女、というわけではもちろんなく、初対面の人にお世辞で「可愛いね」と言ってもらえる程度の容姿、ではないかと。

 少し前(半年ほど前)までは自分のことを「私ブスやし~」なんてTwitter上で言っていたけれど、他人のそういったツイートをみてものすごくいらっとくるのをみて、やめた。

 私のツイートでたまにある「誰々に似ている」というのは、すべて他人に言われたことのあるものだ。

 父からは「小松菜奈に似てると思ったけどよくみりゃ違う」と言われたこともあるし、母からは「中3くらいまでは戸田恵梨香に似てた。いまは違う」などと言われたこともある。ここで言えるのが、似ている、と美人、は違う、ということであるけれども、いま言いたいのはそういうことじゃない。

 1番酷かったのは、中2のとき。

 心身ともに子どもから大人になろうとしているときで、何もかもが不安定だった。親に何か言われる度に物を投げつけ、喚き散らし、何故かわからないまま、涙を流しながら眠りについた。

 そんなとき、私は自分の顔の歪みに気づいた。

 唇、目、鼻、輪郭。

 人間である以上、左右対称にはなれない。けれど、当時の私は鏡に映る自分の顔をみて、その歪みを治したい、修正したいと、叶わぬことを願ってしまった。

 1年間で、鏡を3枚は壊した。1つ目は全身鏡で、次は手鏡。あとは覚えていない。

 いまは随分とましになって、歪みに囚われずに日々を過ごしている。

 けれど、それはいまも時々やってきては、私を鏡に張り付かせて、パニックにさせる。そういうとき、スマホが手放せなくなり、発狂する代わりにTwitterで心情を吐露してゆく。

 自分のうつった写真をみるのは比較的大丈夫だけれども、ふいに鏡をみてしまうといけない。歯磨きや髪のセットをするときも洗面所の鏡はスルーしているし、髪は括ったりいじったりを一切せず、鏡をみる必要のないようにしている。

 美容室などの鏡は、私自身の目が悪いので、ぼやけてしかみえない。日常生活で眼鏡をかけないのは、こういう理由からだったりもするのだ。

 一度歪みに取り憑かれてしまうと、やめよう、やめたいと思っても、鏡からどうしても離れられない。ナルシストみたいだな、と自分でも思うけれど、無理なのだ。

 あとから調べて、私のこの変なナルシストぶりは、「醜形恐怖症」なのではないか、と思った。しかし、医師に診断してもらったわけではないし、ただの自分の妄想かもしれないのだ。

 まるでメンヘラみたいだな、というのは禁句だろうか。

「顔が歪んでいても、美人な人はいるじゃない」

 そういう言葉は、決してこの苦しみから私を解放してはくれないことを、わかってほしい。私は自分が美人ではないから悩んでいるのではなく、顔が、顔のパーツが、一部分が歪んでいるから悩んでいるのだから。

 

沈黙を愛せ。

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 私には友人がいる。多くはない。むしろ、ほかの人と比べて少ないのではないか、と思う。

 私の言う友人とは、「何でも話せて、その人のためなら何でもできる人」、のことだ。

 私がいま、何について悩んでいるのか。そして、私の秘密。それらをあっけらかんと話せるのが、友人だ。友人は、量より質だと思う。言い方は悪いけれど。

 周りに常に人がいる奴は、いつか必ず1人になる。誰に対してもにこにこしている人間は、気づけば1人だ。誰からも愛されているように見えて、誰にも傷をさらけ出すことができない。

 私はそういう人間を羨ましいと思うけれど、なりたいとは思わない。いろんな人間に自分、という存在を振り回されて大変そうだな、とため息をつくだけだ。

 てんちゃん、まなねえ、くじら師匠、さぁ。(友人、と呼ばせてもらっている方たち)

 話していて沈黙が続く人とは仲良くしたくはない。話題をわざわざ隅から隅まで探さなければ話が続かない人はお断り。にこにこしながら喋らなければいけない人とも関わりたくない。

 沈黙を、愛せる人がいい。

 私のお葬式に、一体全体、何人の人間がやって来てくれることだろう。お葬式というものは、じめじめとしていて、わざわざ自分の人生の限られた時間を割いてまで来たい、と思うものではないからね。

 親、親戚、小中高のクラスメイト、とか。そのあたりか。その中で、血の繋がりがない「私のために泣いている人間」が、私の本当の友人なのだろうと思う。この理屈でいうと、本当の友人というのは死んだあとにしかわからない、ということになる。

 だから、私がいま、友人、と思っている人間は、実はそうではない可能性だってある。

 はじめと言っていることが違う。訂正しよう。

 私が生きている間、彼ら彼女らは、私と特に仲の良い人間、なのであって、友人、とは限らないのである。